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1971年、大学院進学。
当初国分直一先生の下で採集狩猟民族の考古学的研究をテーマとして勉強を続けるつもりであったが、その年の夏に増田精一先生が組織されたイラン遺跡調査団のメンバーに選ばれたことをきっかけに、イランの調査に参加することとなった。
現地調査には1971.73.75年の3度参加することができた。その間、1975年に筑波大学歴史人類学系の技官となり、1979年まで雑用を果たした。

3度のイラン滞在で美しいペルシャ語の響きに魅せられ、日本イラン協会が主催したファルシー会の集まりに週一度参加することとなった。
事務局の平さん、青木さん、陰山さん、ご苦労様でした。その会の講師を務めていただいたモアゼニ先生もお世話になりました。
その会では、石川広行、神田文雄さん、牧田都南さん、柳川美智子さん等、個性あふれる仲間達との放課後のおしゃべりが楽しかった。
ファルシー会の集まりが自然消滅してから、民間の語学機関シルクロード社主催のペルシャ語講座を中村公則先生の指導下で10年間ほど受けることができた。 最終的に私は簡単な会話くらいの段階で終わってしまったが、この語学講座も楽しかった。オマルハイヤームの独詠は特に気に入っている。
翌年の大学2年、3年と、千葉県松戸市、船橋市貝塚遺跡の発掘・分布調査を本格的に開始した。
関根孝夫、西野元、岡崎文喜、甲元真之、松浦宥一郎の諸先生、諸先輩に大いにご協力いただいた。
これらの成果は学内機関誌『キョッケンメディングス(貝塚)』に結実した。

当時大学は筑波移転紛争で授業が行われていなかった。
結局私も5年かけて卒業することになった。

この期間中、我々の仲間を強く引っ張ってくれたのが、古里節夫氏である。
彼の実行力と包容力、人間性には深い感銘を受けた。
彼との本格的な交わりは、私が大学院に進学したイラン調査以降のことになり、今でもその報告を継続しながら深まっている。本当にありがたいことだと感謝しております。

1967年、東京教育大学文学部史学方法論(史方)教室に入学。
教室定員はわずか5名。考古学と民俗学からなる若い研究室であった。

主任教授は民俗学の直江先生。それに竹田旦助教授、宮田登助手の3名が専任である。
考古学は増田精一助教授と岩崎卓也助手が専任であった。
考古学の教授はその時欠員であった。翌68年に国分直一先生が専任として赴任された。
入学時は以上の先生以外にも多数の先生方が若き研究室を覗きにこられた。
日本史からは和歌森太郎、桜井徳太郎先生もおいでになった。
先輩方も顔を出され、木下正史、前田潮、甲元真之、岡崎文喜、酒井仁夫、松浦宥一郎氏等がいた。
同級生としては、古里節夫、山浦清、そして私の3名が考古学を選択した。民俗学を選択したのは光主潤、清水信義の2名であった。

考古学は千葉県松戸市近辺で貝塚の調査をしていた関係で、岡崎、松浦両氏に連れられて、放課後松戸近辺の貝塚遺跡をよく巡見した。
民俗学は、沖縄の民俗を調べることを当時テーマとしており、「あかまた」「くろまた」の習俗を研究していた。

私にとって初めての発掘は、北海道根室市のオンネモト貝塚(オホーツク文化期)で行われた。
私より先行して現地に到達していた山浦氏と根室駅で会った時、『コップが出たよ』と言われて何のことかわからず、数日の差で大きな知識ギャップが生まれたことを少し後悔した。
『コップ』とは骨の斧であったことを後ほど知った。
この調査の終了後、山浦氏はすぐにチェスター・チャード氏の論文を学内誌に翻訳発表し、現在の北方文化研究者としての出発点を成した。
ツカピー君、同窓会の写真をありがとう。今日(10月3日)見ました。

大学時代のことをどう書こうか、迷っています。
いろいろエピソードがありますけれども…

今日、千本君が病室に訪ねてくれて、いろいろとこちらの要望を聴いていただいています。
大変有難いことです。
卒業生の諸君もご協力いただいているという話を聞いて、深謝。


思い出すままに、勝手に名前を使っていますが、お許しを。
昨夜は良く眠れました。
ブラスバンド部の仲間の多士済々。
原中学校からお山の大将の気分で高校へ入学したが、全くかなわない秀才揃いであった。

高校2年になって国立文系コースに入った。
なおクラスは一学年が10クラス、マンモス校であった。

その年に東京オリンピックが開催。
オリンピック開催直前の10月2日、開通したばかりの東海道新幹線に乗り新大阪まで行き、そこから瀬戸内海を船で別府に向かい、北九州への修学旅行を行った。
九州では小さい時からの憧れの乗馬を何回も楽しむ事ができた。

高校3年生になって具体的な進路を考え、東京教育大学文学部史学科史学方法論教室への入学を希望した。

神奈川県立希望が丘高校に入学。
同高校は神奈川県最古に創設された神奈川第1中(神中 じんちゅう)をルーツとして、私が入った頃は「神高(じんこう)」と呼ばれていた伝統校であった。

丘の上に広いグラウンドをもち、体育館で入学式を受けた。
ブラスバンド部が演奏する疾走するようなリズムと旋律の校歌で迎えられた。
黒塗りの詰め襟の学生服を着用していた。
これもエリート意識の一つの象徴であった。

新入生歓迎会の後、ブラスバンド部の部室に立ち寄った。
兄の小学校時代以来の友人であった小野勝さんが指揮をしていた。
團伊玖磨の大学祝典序曲で迎えられた。
すぐに入部を誘われ、何がいいのかを聞かれたが特に楽器演奏の経験が無かったため、とっさにショスタコーヴィチを思い出し、ティンパニーを指差した。

特に才能もなかったが3年間ブラスバンド部で楽しく過ごすことができた。
毎年夏、丹沢で合宿練習があり、2年生の夏キャンプ地の斜面で刈り取ったばかりの竹を踏み抜いてしまったことがあった。
その時一緒に合宿していた陸上部の先輩から、傷口にウイスキーをかけられて消毒し、翌日下山して実家近くの医者へ駆け込み、その初期治療の素晴らしさについて褒められたのを記憶している。
今もその傷跡が足の裏に残っている。
というわけで当時の合宿は酒瓶がつきものであった。自由な校風であったと思う。


コメントを寄せていただいた方々をはじめ、みなさん色々な反応ありがとう。
つまらない個人的ブログですが、目を通していただいて、読んでいただいているようで嬉しく思います。


(本日午後より口述筆記にて、家族代筆。
家族一同、ブログを見にきてくださったみなさまに感謝の気持ちで一杯です。
引き続きよろしくお願いいたします。)
中学時代の大きな思い出として、名古屋の叔父・久田和彦、泰子夫妻の新居に一夏過ごした事を思い出す。

私の中学1年の夏休み、兄と一緒に久田さんに連れられて東海道線で名古屋まで6時間かけて初めての遠出をした。

名古屋では色々な体験をさせていただいた。
家は名古屋市の昭和区にあり、すぐ上に久田さんの勤めていた南山大学付属高校のグラウンドがあった。
そのグラウンドで初めてスクーターに乗った。
東山公園ではボートを漕いだ。
市内で美味しいステーキをご馳走になった。
全て新しい経験であった。

その年の夏、久田さんから紹介されたミカ・ワルタリの『エジプト人』を読破した。
今につながる思い出であり、大好きな久田叔父さんに大いに感謝したい。

1958年4月、髪を切って(坊主頭が強制された)横浜市立原中学校に入学した。

『緑の穂波 霜の道…』と校歌にあるように、原中学は三ツ境小学校よりも更に奥にあり、名前の通り畑の真ん中に位置していた。
ヒネモス通りを通り過ぎて自転車で通学した。

九人制バレーボール部に入部。中学二年生からは写真部にも在籍した。
新しく始まった英語と数学についてはやや苦手意識を持っていたが、社会(歴史、地理)に関しては絶対の自信があった。
幼い時から愛読していた新聞の影響であろう。
当時の政治指導者の顔写真を切り取ってノートに貼ることが趣味の一つであった。
社会科教師の試験問題はほとんど全て事前に予想することができた。
問題作成の楽しみはその後の大学教員生活にもつながっているように思う。