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(2)富岡町の工場の横は旧国鉄の官舎続き、その横には広い公園があった。夕方の「紙しばい」上演までトンボ捕りをしたりしてたくさん遊び、紙しばい終了後はNHKラヂオを聞くために家に飛んで帰る毎日だった。「ふえふき童子」「赤銅鈴之助」「ウテナの塔」「新諸国物語」等々、すべて懐かしい幼少期のラヂオの思い出である。

 

富岡町の叔父宅「神友製作所」に居住していた関係で

小学校時代は地元の横浜市立浦島小学校に入学した。「浦島」という地名は名前の通り日本全国にある浦島太郎伝説の候補地の一つである。「浦島丘陵」上に位置し、丘陵下の「子安の浜」と対をなしている。余談となるが、小学校の学芸会では必ず浦島太郎劇が上演され、私も低学年の時にタイやヒラメの面をつけて舞台に立った事があった。

 

浦島小学校は横浜市内でも屈指の長い歴史を持つ伝統校で、昭和28年の入学時も創立数十年(あるいは百年近く?)経っていたと思われる。団塊世代の宿命で、教室不足のため入学時より早番(朝番)、遅番の二部制授業を受ける事となった。

 

富岡町の叔父宅、工場での短期居住をしてから母の実家(木村家)のあった神奈川区六角橋郊外に転居した。母の実家は神奈川大学も付近にあったが、集落の外れですぐそばまで水田が広がっており、春先から初夏にかけてカエルの大合唱がやかましかった。

毎週決まった日に鮮魚を桶に入れてかついで来る魚屋さんが、実家の庭先で魚をさばく。さばいた頭やハラワタをもらって美味しい煮魚となった。時に訪れたドジョウ屋さんも当時の楽しみの一つで、後の大のウナギ好きの原点となったものである。

 

六角橋へ転居してからも地元の小学校へは転校せず、毎日片道1時間かけて浦島小学校へ徒歩通学した。我がアルケオロジー人生の出発となるものである。(祖父の木村龍さんを戸主とする)実家は祖母のカンさんが長い間の心臓病治療のため不在の時も多かったが、そのような時に一部屋を空けてもらい我々一家4人を同居させていただいたと思う。また実家に隣接していた母の二番目の姉(龍祖父の二女)板橋安子おばと一人娘の好子さん(私のいとこの「よっこちゃん」)、母の弟の木村章三おじさんも同居し、時折訪れる佐渡友のいとこ達と隣り合わせ、狭い空間の中で楽しい毎日を送った。

 

(3)へ続く

 

 

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