一定期間更新がないため広告を表示しています

1967年、東京教育大学文学部史学方法論(史方)教室に入学。
教室定員はわずか5名。考古学と民俗学からなる若い研究室であった。

主任教授は民俗学の直江先生。それに竹田旦助教授、宮田登助手の3名が専任である。
考古学は増田精一助教授と岩崎卓也助手が専任であった。
考古学の教授はその時欠員であった。翌68年に国分直一先生が専任として赴任された。
入学時は以上の先生以外にも多数の先生方が若き研究室を覗きにこられた。
日本史からは和歌森太郎、桜井徳太郎先生もおいでになった。
先輩方も顔を出され、木下正史、前田潮、甲元真之、岡崎文喜、酒井仁夫、松浦宥一郎氏等がいた。
同級生としては、古里節夫、山浦清、そして私の3名が考古学を選択した。民俗学を選択したのは光主潤、清水信義の2名であった。

考古学は千葉県松戸市近辺で貝塚の調査をしていた関係で、岡崎、松浦両氏に連れられて、放課後松戸近辺の貝塚遺跡をよく巡見した。
民俗学は、沖縄の民俗を調べることを当時テーマとしており、「あかまた」「くろまた」の習俗を研究していた。

私にとって初めての発掘は、北海道根室市のオンネモト貝塚(オホーツク文化期)で行われた。
私より先行して現地に到達していた山浦氏と根室駅で会った時、『コップが出たよ』と言われて何のことかわからず、数日の差で大きな知識ギャップが生まれたことを少し後悔した。
『コップ』とは骨の斧であったことを後ほど知った。
この調査の終了後、山浦氏はすぐにチェスター・チャード氏の論文を学内誌に翻訳発表し、現在の北方文化研究者としての出発点を成した。
コメント
コメントする