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小学校〜中学校時代にかけて、夏休みはほとんど一夏三浦の実家で過ごした。
実家は浦賀駅からバスで三崎に向かう途中の今井浜で下車し20分程丘を登った石作(いしじゃく)というところにあった。
一軒の大きな藁屋根の農家を借りたものであった。
外に釣瓶(つるべ)井戸が備えられ、その横に「五右衛門風呂」が造られていた。
当時の農家と同じように部屋数は多かったが、多くは納戸として使われていたため、実際は台所と居間と数室の部屋が利用され、夏の間は我々兄弟2人の逗留する場となった。
北側にあった汲み取り式トイレだけは苦手であった。

祖母のキヌは小学校の和裁の教師をしており、その後華道の師範を取って活発に外部で教えていた。我々が夏を過ごしたのはその頃のことである。

なお、祖母は70歳になって詩吟を始め、90歳にして「岳風会」の免許皆伝を得、93歳で大往生した。今で言うスーパーウーマンの走りであろう。

そのような関係で、家の主夫業は祖父の包芳が担っていた。
一見厳格な印象を与える祖父であったが、細かい事にもよく気付く極めて優しい一面を持っていた。
大変な愛書家で、珈琲を愛するモダンボーイであった。
バター(マーガリンではない)の味を教えてくれたのも祖父であった。
祖父の書棚に残された本を手に取ってみると、細かい鉛筆の記入が残されており、中には編集ミスの指摘さえ残され、その几帳面な性格を知ることができる。

当然ながら我々の夏休み滞在中には色々な役割が与えられた。
配膳、下膳、廊下の水拭き等々が我々兄弟に与えられた仕事であった。

家の裏側に小さな森があり、その枝の上に隠れ家を作って遊んだのも良い思い出である。
午後は今井の浜に出掛け泳ぎ、夕方ザリガニを釣って帰った。
そのころになると蚊が大発生し、「蚊柱」が巻き上がっていた。
祖父はシュロの木の葉を煙に焚いて蚊柱を追い払い、すぐに蚊帳を吊った。
何事も主夫業は包芳さんが担っていた。
大好きだった相撲の相手をしてくれたり、祖父には随分可愛がってもらった。

小学校4年になると、早速多くの友達に恵まれた。
加藤章文君、深津迪夫君、星野孝枝さんなどと互いに誕生会をしあった。

その後年賀状でのやりとりで連絡の取れている加藤君とは2010年に横浜の朝日カルチャーセンターで行ったブルガリア考古学関係な話を聴講していただいて、その後星野さん共々食事をすることができたことは懐かしい思い出である。
あの時の人達の多くが、今もなお三ツ境周辺に居住していることに大いに驚いたものであった。

同じ楽老団地に大浜君という同級生が居住していた。
彼が毎月見せてくれた『科学大鑑』(あるいは『少年画報』)という少年向け科学グラフ誌を見ることが楽しみだった。
その内容は宇宙、天体、地球、地質、人体、地理、人類民族等に及ぶ、少年達の心を沸き立たせるような内容のグラフ誌であり、特に人類民族の奇習に大いなる興味を持った。
「人類学」「民族学」に対する憧れと第一歩となった。

この時の一番の楽しみは自由な読書であった。
『15少年漂流記』をはじめとするジュール・ベルヌ物(特に『地底探検』)、ジャック・ロンドンの『荒野の呼び声』、中国、日本の歴史物(『三国志』や『源平盛衰記』『新平家物語』など)を愛読することができたことは嬉しかった。

午前中はNHKラジオもよく聞いていた。
新聞も隅から隅まで読むことが楽しみだった。

母が近くの肉屋から特別に手に入れた鶏や豚のガラ骨を使って作った栄養満点のスープのおかげで小学校3年末までにすっかり健康を取り戻すことができた。

但しこの時期に学校に通えなかったために、九九の習得に苦手意識を持つようになり、その後の理系へのコンプレックスの出発点となってしまった。

早速地元の三ツ境小学校へ転校することとなった。
家から学校までの畑道の横には大きな「肥溜め」があり、いつも鼻をつまんで駆け抜けた。
春先たなはその表面がゆるみ、
「春の海 ひねもす のたりのたりかな」
にちなんで我が家ではその道を「ヒネモス通り」と呼ぶようになった。

さてこの時体調を崩すこととなった。
肋膜(ろくまく)炎の発症である。
やはり生来はそれ程頑健ではなかったのかもしれない。
登校は許可されず、自宅学習という措置で小学3年後半を過ごすこととなった。
毎日放課後、近所の同級生が給食のパンと学習資料を運んでくれた。

長い間借り屋住まいが続いた。
そんな時、市営住宅入居申し込み失敗12回目以上の市民に特別な優先枠が与えられ、めでたく戸塚区(現・瀬谷区)三ツ境の楽老(らくろう)団地に入居できることとなった。

小さな庭付きの2階建て6軒を一棟とする低層アパートと5階建て(?)の中層アパートから成る団地で、相鉄線に面している。

我が家は低層アパートの中央部に居住できることとなった。
小学校3年と夏のことである。

(7)もう一つの新しき生活スタイルは夏休みの長期休暇を利用しての父方の実家・三浦への長期逗留であった。

教師としての父は勿論長い夏休みがあったわけではないのだろうが、一週間〜10日間程は母とよく旅行に行っていたようだ。
几帳面な父が残した多数のアルバムにその詳細な痕跡と一部が今も残されている。
当時としては新しい生活スタイルであろう。
三浦の実家の話については後ほど述べたい。

(5)より続く。

二つ目、これはすごく重要。

毎週末の土曜日の夜は横浜・野毛への一家外食の日であった。
父が勤め人であったから可能だったのであろうが、これは私達兄弟にとって素晴らしい思い出、「贈り物」であったと今しみじみと思っている。

外食の前には毎回野毛にあった「横浜ニュース映画館」に通った。
両親としてはニュース映画の合間に上映されたディズニー漫画(アニメ)を見せることを考えたのかもしれないが、私自身としてはニュース映画として上映された当時の世界の動きに目を見張った。

今でも強いイメージを残している映像はスターリン死去後のフルシチョフ台頭までのモスクワの暗く寒々しい風景、ナセルの中東戦争、京大隊のマナスル登頂の記録、南極遠征関係、少し後になるが東大隊のイラク発掘調査風景など。
当時(1950年代)の日本や世界で現に進行中の生々しい出来事(正に現代史)に接した。

「ロシアもの」といえばスターリン治下の苛酷状況に生きたショスタコーヴィチや科学者のルイセンコ、オパーリン、映画監督のエイゼンシュタイン等の人生に興味を持たせるきっかけを与えてくれた。
この時の大きな影響は将来の仕事として新聞社の特派員(それも出来ればモスクワ赴任の)になりたいという漠然とした夢を与えた。

ニュース映画鑑賞後はいつものように野毛「泰華櫻(たいかろう)」でワンタンメンを食べた。
「今日はワンタンがいくつ入っているだろう」と兄とワンタンの数を数え合った。だいたい14〜16個であった。
その後市電で六角橋まで戻り、週末に開かれていた夜店を冷やかし、木村家の実家に戻った。

まだ若かった両親にとっても楽しい週末であったろうが、子供達もそれぞれ素晴らしい時間を過ごすことができて大変幸せであった。

(5)最後に、この頃私に与えてくれた最も重要な両親の教育方針と、当時としてはすこぶるモダンで特徴的な生活スタイルについて、感謝を込めて紹介したい。すべてはその後の私の歩みに直結することとなった。

 

一つは左手利き手を最後まで直されなかったこと。小学校の頃の習字の授業には苦労したが、それ以外は全く支障なく過ごせている。

 

(9/30提出分は以上です)

 

 

(4)この項目が少々長くなっているが、もう少し続けたい。お付き合いを。

{呼吸状態が安定して来たとのことで、本日9/30午後ICU室を離れる事になりました。まずご報告。}

 

六角橋の実家の中庭には大きなイチジクの木が一本あり、毎年初夏その甘い匂いと香りをミツバチと嗅ぐことが楽しみだった。

但しイチジクに関してはもう一つ大きな思い出がある。イチジクの実を採った後の白い乳液の利用である。

 

 

 

 

(3)木村章三おじさんからは、クラシック音楽の手ほどきと酒の味を充分に教えていただいた。一般に木村家は酒飲みの家系で、酒に対する倫理的許容度が一般家庭よりも大きかったと思う。少なくとも父方の禿家よりも飲酒に関してははるかに自由な雰囲気であった。小学校入学前より既に誕生日には赤ワイン(赤玉ポートワイン)を飲んでいた。

祖母カンの通夜の席

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