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早速地元の三ツ境小学校へ転校することとなった。
家から学校までの畑道の横には大きな「肥溜め」があり、いつも鼻をつまんで駆け抜けた。
春先たなはその表面がゆるみ、
「春の海 ひねもす のたりのたりかな」
にちなんで我が家ではその道を「ヒネモス通り」と呼ぶようになった。

さてこの時体調を崩すこととなった。
肋膜(ろくまく)炎の発症である。
やはり生来はそれ程頑健ではなかったのかもしれない。
登校は許可されず、自宅学習という措置で小学3年後半を過ごすこととなった。
毎日放課後、近所の同級生が給食のパンと学習資料を運んでくれた。

長い間借り屋住まいが続いた。
そんな時、市営住宅入居申し込み失敗12回目以上の市民に特別な優先枠が与えられ、めでたく戸塚区(現・瀬谷区)三ツ境の楽老(らくろう)団地に入居できることとなった。

小さな庭付きの2階建て6軒を一棟とする低層アパートと5階建て(?)の中層アパートから成る団地で、相鉄線に面している。

我が家は低層アパートの中央部に居住できることとなった。
小学校3年と夏のことである。

(7)もう一つの新しき生活スタイルは夏休みの長期休暇を利用しての父方の実家・三浦への長期逗留であった。

教師としての父は勿論長い夏休みがあったわけではないのだろうが、一週間〜10日間程は母とよく旅行に行っていたようだ。
几帳面な父が残した多数のアルバムにその詳細な痕跡と一部が今も残されている。
当時としては新しい生活スタイルであろう。
三浦の実家の話については後ほど述べたい。

(5)より続く。

二つ目、これはすごく重要。

毎週末の土曜日の夜は横浜・野毛への一家外食の日であった。
父が勤め人であったから可能だったのであろうが、これは私達兄弟にとって素晴らしい思い出、「贈り物」であったと今しみじみと思っている。

外食の前には毎回野毛にあった「横浜ニュース映画館」に通った。
両親としてはニュース映画の合間に上映されたディズニー漫画(アニメ)を見せることを考えたのかもしれないが、私自身としてはニュース映画として上映された当時の世界の動きに目を見張った。

今でも強いイメージを残している映像はスターリン死去後のフルシチョフ台頭までのモスクワの暗く寒々しい風景、ナセルの中東戦争、京大隊のマナスル登頂の記録、南極遠征関係、少し後になるが東大隊のイラク発掘調査風景など。
当時(1950年代)の日本や世界で現に進行中の生々しい出来事(正に現代史)に接した。

「ロシアもの」といえばスターリン治下の苛酷状況に生きたショスタコーヴィチや科学者のルイセンコ、オパーリン、映画監督のエイゼンシュタイン等の人生に興味を持たせるきっかけを与えてくれた。
この時の大きな影響は将来の仕事として新聞社の特派員(それも出来ればモスクワ赴任の)になりたいという漠然とした夢を与えた。

ニュース映画鑑賞後はいつものように野毛「泰華櫻(たいかろう)」でワンタンメンを食べた。
「今日はワンタンがいくつ入っているだろう」と兄とワンタンの数を数え合った。だいたい14〜16個であった。
その後市電で六角橋まで戻り、週末に開かれていた夜店を冷やかし、木村家の実家に戻った。

まだ若かった両親にとっても楽しい週末であったろうが、子供達もそれぞれ素晴らしい時間を過ごすことができて大変幸せであった。

(5)最後に、この頃私に与えてくれた最も重要な両親の教育方針と、当時としてはすこぶるモダンで特徴的な生活スタイルについて、感謝を込めて紹介したい。すべてはその後の私の歩みに直結することとなった。

 

一つは左手利き手を最後まで直されなかったこと。小学校の頃の習字の授業には苦労したが、それ以外は全く支障なく過ごせている。

 

(9/30提出分は以上です)

 

 

(4)この項目が少々長くなっているが、もう少し続けたい。お付き合いを。

{呼吸状態が安定して来たとのことで、本日9/30午後ICU室を離れる事になりました。まずご報告。}

 

六角橋の実家の中庭には大きなイチジクの木が一本あり、毎年初夏その甘い匂いと香りをミツバチと嗅ぐことが楽しみだった。

但しイチジクに関してはもう一つ大きな思い出がある。イチジクの実を採った後の白い乳液の利用である。

 

 

 

 

(3)木村章三おじさんからは、クラシック音楽の手ほどきと酒の味を充分に教えていただいた。一般に木村家は酒飲みの家系で、酒に対する倫理的許容度が一般家庭よりも大きかったと思う。少なくとも父方の禿家よりも飲酒に関してははるかに自由な雰囲気であった。小学校入学前より既に誕生日には赤ワイン(赤玉ポートワイン)を飲んでいた。

祖母カンの通夜の席

(2)富岡町の工場の横は旧国鉄の官舎続き、その横には広い公園があった。夕方の「紙しばい」上演までトンボ捕りをしたりしてたくさん遊び、紙しばい終了後はNHKラヂオを聞くために家に飛んで帰る毎日だった。「ふえふき童子」「赤銅鈴之助」「ウテナの塔」「新諸国物語」等々、すべて懐かしい幼少期のラヂオの思い出である。

 

富岡町の叔父宅「神友製作所」に居住していた関係で

(1)3歳になった時、父親の赴任地移動に伴い横浜市内に急遽転居することになった。しかし当時は大の住宅難の時代、市内への転居については住居も容易には見つからなかった状況であっただろう。しばらくは母不二子の実家のあった木村家関係の事を中心に思い出を綴りたい。

 

 

 

 

歌の思い出としてもう一つ。

80年代前半の横浜での調査時において、保土ヶ谷近くの安飲み屋に通っていたとき、常連客とよく肩を組んで横浜市歌を歌って楽しんだことは既に書きました。
その頃愛唱した曲を思い出しましたので書いてみます。


『国民の歌』シリーズ

1.国民の酒 焼酎は
安くて すぐに 酔えるよ
ビールでは 物足りない
ウイスキーは 高すぎる
国民の酒 焼酎は
安くて すぐに 酔えるよ

2.国民のたばこ 新生は
安くて 香りも良いよ
ピースでは 高すぎる
朝日では さびしいよ
国民のたばこ 新生は
安くて 香りも良いよ

3.国民のおかず 焼き鳥は
安くて 栄養満点
すき焼きは 高すぎる
オカラでは さびしいよ
国民のおかず 焼き鳥は
安くて 栄養満点

以上、団塊世代のかすかな記憶。
違っているかも。
神奈川大 佐野先生は詳しいと思います。

9月29日、本日は疲れました。(眠い!)