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土井氏は東海大学考古学第1回生の卒業生。
在学中の校地内遺跡調査で大いに鍛えられ、現場でのスーパーマンであったとか。
私自身も横浜市帷子峯遺跡の調査でご一緒させていただき、その実力と人間性に深く感銘を受けました。
その後も現在まで長い間お付き合いを続けさせていただいています。

さて私は1997年、関根孝夫団長よりブルガリア調査団団長の任を引き継ぎました。
まず困ったのは90年代前半、実質的に自らが担ってきた現場でのフィールド・マスターの役割をどうするか?

それまで調査を共同で進められていた大学の同僚の先生方もそれぞれの仕事との関係で調査全期間の関与がむづかしいとのこととなり、調査団編成に苦慮していたところ、関根先生より「土井君がブルガリア調査に興味を示しているよ」とのうれしい情報をもらいました。

早速本人と連絡をとり、水海道市教育長に依頼文を作成し土井氏の調査参加への了解・許可をいただきました。

この年の調査はブルガリア・ユーナツィテ遺跡調査団の中心メンバーであった考古学者マツァノヴァ博士のデャドヴォ基地長期同宿もあり、学問的に落ち着いた雰囲気の中での素晴らしい調査でした。
互いに資料を提示し合いながらの個別資料に対する勉強を進め、互いに大いに意味ある時間を過ごすこととなりました。

夕食後、自家製のラキアとワインを片手に宿舎横のブドウ棚の下のベンチに日・ブル両国のスタッフが思い思いに集まり、いつしかはじまった歌合戦に興じました。
ブルガリアの哀調あふれた民謡や、バルカン各民族の唱歌の調べが満天の星空にしみ込んでいきました。

ちなみに私はロシア民謡の「バルカンの星の下に」(実際は1950年代作の「ロシア新民謡」です)を歌った記憶がありますが、日本側団長としてはここでももちろん土井君のギター片手のフォークソングと、同年の調査に参加いただいた土井君の同級生である福島県郡山市教育委員会の鴫原靖彦氏の「田原坂」の熱唱でした。
鴫原君、ありがとう。今でも君の歌声が耳に残ります。

昨夕、妻より提案。
あまりに年代順記述にこだわって少数の「自分史関係」の関係者(当面最初は家族・親族及び今後登場予定の幼少期の友人達)だけを回想するのではなく、時にはこのブログに反応を寄せていただいた人への感謝、感想を適宜加えたほうが良いのではと忠告されましたので、これは臨時版です。


まず最初に茨城県常総市役所お勤めの土井義行氏のことを述べます。

突然始めた我がブログに直ちにコメントを寄せていただき感激しました。
氏には1997年から1999年のブルガリア・デャドヴォ遺跡調査団に参加していただき、実質的にフィールド・マスターとして大活躍いただき、その後も奥様の奈穂子様と共にブルガリア・日本の民間文化・学術交流を活発的に進めてもらっております。
今や常総市(旧水海道市)はブルガリアでは「知る人ぞ知る」日本の都市で、ブルガリア・トラキア学の権威ディアナ・ゲルゴヴァ博士等の日本での常宿ともなっています。
本当にご苦労さま、ありがとうございます。


(2に続く)
(4)さて、既に述べた私のプロフィール紹介で「1947年神奈川県生まれ」と曖昧に記述した。
私はハマッ子気質(すなわち横浜大好き人間)が強く、相模原の上溝生まれということを何となく言い出しにくい気持ちであった。 現在100万都市となった相模原市には失礼しました。

上溝出生は父の赴任地勤務との関係で、私の2〜3才の幼児期まで県の官舎で居住しました。
残念ながらおぼろげながらの原風景の記憶しか残っていませんが、それは広々としたトウモロコシ畑と桑の実です。一日何本通っていたか、「横浜線」の記憶もあります。
(3)禿包芳、キヌの長男が父・芳雄である。

祖父・包芳が神奈川県庁に勤めていた関係で大正6年小田原で誕生。
戦後神奈川県立上溝高校の国語科教師として教師生活を始め、以来定年までほぼ40年間の高校教師生活を送った。

その後も元気を保ち、2011年5月、93才の死の直前まで車を運転することができた。

現代俳句の詠み手で何冊もの句集を出版しているが、なかなかモダンな内容で息子として時に句集のページをめくっては理解、追体験できるように頭をひねっている。

(2)禿(かむろ)という姓についても書かなければならない。
学童期から学生時代までなかなか正しく読んでもらえず、特に新学期にはヒヤヒヤしたものであった。

「かむろ」とは元来髪型に由来する言葉で、本来は童女とか子供達のおかっぱ頭、未成人のざんぎり頭のように公的人格獲得以前の非公式の髪型に由来するようだが、病室内では学問的にはそれ以上調べられない。

「禿」という姓は親鸞上人が自らを「愚禿(ぐとく)親鸞」と称したことに始まり、以来浄土真宗に関わる寺関係の名として日本全国の電話帳に記されている。すべて姻戚関係はない。
我が禿家も大祖父(私の3代前)の禿賢海さんが神奈川県三浦市で浄土真宗来福寺に付属する小さな塔中(たっちゅう)に居住していたといい、三浦の実家の丘下にその建物址の一部が残っている。

賢海さんには一人娘(祖母・禿キヌ)がおり、小林包芳(かねよし)さんを養子に迎えて寺は廃業したとのことである。
ということで祖父母である2代前の禿包芳、キヌの代より我が家は真宗関係とは直接の関係を持っていないが、我が禿家のルーツはそこにあり、「愚禿親鸞」と名辞的つながりを持っていることは確かである。

(1)1947年10月19日神奈川県相模原市上溝で生をうける。
幼少期の数年を過ごしただけで、一面のトウモロコシ畑と路傍に植えられた桑の木しか覚えていない。
終戦の年に生まれた2才上の兄・正美(マサミ 2年前に逝去)と思い出話を交わせなかったことが残念である。

兄のことで言えば、「マサミ」という名をどう思っていただろうか?
現在では女性でも使われることがあり、けれど実に平和日本への希望が託された良い名前と思っておりました。
兄の同級生には8月以前生まれに、まさる とか かつ男 のような勇ましい名が多く、この世代が良くわかる特徴である。

戦後2年経ってから生まれた私の場合は、父親の中国古典への関心からか、むづかしい「仁」の字が使われた。
終生「仁」を「志」したが路半端である。